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□■here we are!■□
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| その事に、初めは誰も気付かなかった。海江田と同室の者も、彼とはくされ縁を通り越して糸を引きかけている深町でさえ、それには気付かなかった。 深町にすら、ただ何かに腹を立ててカリカリしている程度にしか異変を感じさせなかった海江田は、ほとほと我慢強い…としか言いようがない。 これは海江田と深町の青春の1ページ、花の江田島ライフストーリーである。 「近頃の海江田、機嫌が悪いらしくて…部屋にいても気が気じゃないよ」 談話室。数少ない灰皿を囲んでいた内の一人が溜め息混じりに呟いたところからこの事件は発覚した。 「あ、俺もさっき、すげー冷ややかに睨まれちゃって…コワいよなぁ、ああいう時の海江田」 「俺も廊下で擦れ違った時、ちょっとぶつかったら無茶苦茶ねちっこく注意されたぜ。普段はあれでこの程度の事じゃ、結構何も言わないのにさぁ」 一人が言い出すと、俺も俺もと次々に名乗りを上げる者が出てくる。元からいろいろな意味でコワい存在ではあったが、ここ数日の彼のコワさと言ったら…『とっつあん幹候』と呼ばれる叩き上げの候補生すら、一目置いてしまう位だった。 「ちーッ、何カリカリしてやがんだ、あいつは。カルシウムが足んねーんじゃねえか? それとも誰かあの野郎にいらんちょっかい出した奴でもいるのか?」 (いらんちょっかいについてわざわざ説明する必要はあるまい。ただ、防大に入ったばかりの頃は海江田に対するそういう手合いも多かったが、ことごとく撃退され、今では親衛隊のごとく尽くす者はあっても、そこまでする勇気ある者はいなかった。余談である) そんな、皆が皆びくびくしている中で、相も変わらず豪快な者が約一名。 「コワがる必要なんかこれっぽっちもねーぞ! 煮干しでも口に突っ込んでやって、カリカリしたいだけさせとけ。どうせ『一昨日の食事が口に合わなかった』んだろーよ」 深町はそう云ってガハハと笑ったが、実は海江田のカリカリが笑い事ではない事を、後に発見する事になる。 「おッ、海江田。久しぶりじゃねーか」 久しぶりも何も、毎日顔を突き合わせているじゃないかと思われるかもしれない。確かにその通りである。教室で会い、訓練で火花を散らせ(?)、食堂ではす向かいにちゃっかり席を取っていたりする彼らにとって何が久しぶりかと云えば、彼らの入浴時間が重なった事であった。それにしたってここ三日程、海江田の入浴時間が少しばかり遅かっただけである。 「またレポートか? 資料調べか? それともお袋さんに手紙でも書いてやがったのか?」 いずれにしろ悪いこっちゃねーなと深町は一人で納得していた。ハメをはずす(学生、それも幹部候補生として、だが)奴はどこにでもいるものだが、こいつだけは例外と深町も認めている。養命酒のビンに日本酒を詰めて教官の目をごまかし、その養命酒臭い酒を裏取引する者がいた事もある。見つかれば謹慎程度じゃ済まないが全面禁酒の構内で、あれば破りたくなるのが規則とばかりにそう云った手合いは後を絶たない。それに絶対関わってないと云い切れるのが海江田だった。もちろん、見て見ぬふりをしていた面もあるのだろうが…。 海江田はそんな深町にちらりとだけ視線を走らせると返事もせず、そのまま制服のボタンに手を掛けた。 こいつ、相当カリカリしてんな… 普段から付き合いやすいタイプではなかったが、かと云って意味もなく人を無視する事もなかった海江田のこの態度に深町は首を傾げた。あれからいろいろ話は聞かされたが、海江田の不機嫌に心当りのある者はいなかった。深町にしても心当たりはないのである。それにしても無視されるのは気に食わない。 「おいこら、返事くらい…」 そう云って深町は何気なく海江田の肩に手を掛けた。手を掛けてぎくりとする。 「な、何だよ」 カリカリしているのを通り越して、ちょっと凄いくらい冷たい眼をして自分を睨みつける姫君に、さすがの深町もたじろいだ。 「…手を…離したまえ、深町」 視線も冷たければ声も冷たい。驚いて反射的に手を離した深町を、それっきりまるで無視して海江田は制服を脱ぎ始めた。 この時だった。深町が海江田の『カリカリ』の理由を知ったのは。 いつもはするりと抜いてしまう袖。 それが今日は何だか酷くゆっくりなのに深町は気付いた。左はいつも通り。しかし右は…。 「あ──ッ!?」 急に大声を上げた深町に(いつもが大声でないとは云えないが)その場にいた殆どの者の視線が集中した。その中でも海江田はことさらうるさそうな視線を深町に向けている。しかし、深町にとって、そんな事はどうでもよかった。どうでもよくない事はただ一つ…。 「海江田ッ、キサマその肩どうしやがった!?」 右肩。目立たないように、感づかれないように振る 舞っても隠し切れない腫れ。 「…何の事だ?」 しらじらと云う海江田は、まったく知らぬ存ぜぬで通すつもりらしかった。 「何ともないとでも云いたいか」 「深町…私の肩がどうしたって云うんだ、言いがかりは…ッ!!」 深町によって引かれた腕に海江田は言葉を失った。 「やっぱりな」 自分の思った通り、酷く痛そうな顔をした海江田に、深町は頭を掻いた。 「お前、痛い時は痛いって云え。痛覚ってのは、危険信号なんだぞ。小学校で習わなかったか?」 「大きなお世話だ」 それでもまだ憎まれ口を叩く海江田に、深町は溜め息をついた。 こいつ、本当にそのうち死ぬんじゃねーだろうな とにかく海江田が肩に怪我をしている事は分かった。それがかなり痛む事も。深町は、床に落ちた海江田の制服を拾い上げると、それを海江田に着せ掛けた。 「もう嫌とは云わせねーからな。医務室に行くぞ!」 深町はまだ不満らしい海江田の、どうやら無事な左腕を掴むと、そのまま有無を云わさず医務室まで海江田を引きずって行った。 「うーん、ここでは何とも言えないが…肩が外れかかっているようだねぇ。ひびが入っているかもしれないし…何時からだね?」 触診の後、医師に問われた海江田は、少々ためらいぎみに三日前と答えた。 「何ィ──ッ!」 案の定、先に叫んだのは医師ではなく深町だった。深町は、ものすごい勢いで海江田の襟元を掴み、激しく揺さぶった。 「ふかま…ちッ!」 「お前、こんな事、三日も前から隠してやがったのか! 三日前っつーと、あのカッター訓練だなッ! 云え! 何やらかした!」 「深町!」 珍しく声を荒だてた海江田に、深町は驚いて手を止めた。こんな反応もできるのかと覗き込むと、海江田は非難の眼で深町を見ていた。 「…痛い」 少しスネたような口調。初めて聞く口調に、深町は反射的に海江田の襟を離してしまった。 「まあ、今日はとりあえず湿布をしておこう。明日朝一番で専門医に診てもらいなさい。いいね?」 医師はやっと騒ぎが収まったと云わんばかりに素早く海江田の手当てに取りかかった。おとなしく手当てを受ける海江田は、まったくいつもの通りの海江田に戻っている。 何だ、こいつ…? てきぱきと手当てされる海江田を見ながら、深町はカルチャーショックに近い混乱を起こしていた。 「おッ、なかなか痛々しーじゃねーかッ」 朝から病院へ連れて行かれていた海江田が戻ったのはもう正午に近い時間だった。右腕を真新しい三角巾で吊った海江田はそれなりの怪我人に見えた。 「大した事はない。医者が大袈裟過ぎるだけだ」 海江田は憮然として、いかにも不本意そうに云ったがその後ろで担当教官が困ったように溜め息をついた。 「あのなぁ、海江田。それは大袈裟じゃないんだ、大袈裟じゃ。外れていた方が良かったんだぞ。それを外れかかった状態で三日も放置すれば、悪くなるのは当たり前だろう。云われた通り、二週間は動かすんじゃないぞ。訓練は見学して、できるだけおとなしくだなぁ…」 「しかし、教官…」 「しかしもかかしもねえ! 三日もほっといてガキじみた意地張ってんじゃねーぞッ!」 当然のように、怒鳴ったのは深町だった。頭から湯気を立てんばかりに唸っている深町に、海江田の相手は深町にさせておくのが一番と、渡りに船で教官は黙ってしまった。 「みんなも聞いたな! これから二週間、ふんじばってでもこの馬鹿に右腕使わせんじゃねーぞ!」 「ああ、困った時は御互い様だしな」 根本的に『いい奴』の多い学友達は、純粋なもしくは不純な(?)好意で口々に答えた。 「二週間は最低ラインだからな」 教官もすっかり深町に任せるつもりでいるらしい中で海江田の抗議が虚しく響く。 「深町、勝手な事を…」 「えーいッ、つべこべぬかすんじゃねぇッ、この怪我人が!」 深町の態度はどう見ても怪我人に対するものではなかったが、その勢いに学友も、教官も、敢えてコメントは差し控えてしまった。 「だーッ、腹減っちまったじゃねーか! メシ食いに行くぞ!」 そのまま海江田を引きずるように、深町は食堂に向かう。 「でも、深町」 「でもじゃねぇ!」 「しかし…」 「うるせえ!」 こんなやりとりが徐々に小さくなっていく。 「…大丈夫かなぁ」 何も起こらずに済む訳がない… 残された者達は、これからの二週間に起こるだろう出来事を想像し、密かに溜め息をつかずにはいられなかった。 「ほら、海江田」 自分で取りに行くと云って聞かなかった海江田を無理矢理座らせて食事を取りに行った深町は、海江田の眼の前にトレイを置き、その隣に腰を下ろした。 トレイの上にはてんこもりの茶碗にワカメと豆腐の味噌汁。カマスの塩焼きとほうれんそうのお浸し。あとは人参やら大根やら油揚げの入った煮物がどっかりと乗っている。 「おーし、食うぞ!」 殆どかけ声のようにそう宣った深町につられて海江田も箸を取った。 てんこもりで食べにくいご飯をものともせず、凄じい勢いで掻き込んでいく。あっと云う間にトレイの上のおかずの量が減っていく様子は見ていて気持ちがいいと、深町の食いっぷりは食堂で働く者の評判がいい。 いつもの通りの勢いで食事を掻き込みながら、ふっと深町は気付いた。右隣の海江田は、見た目にはとても綺麗に箸を握っている。が、しかし。 ゆっくり、ゆっくり、そおっと、そおっと、茶碗に箸をつけている海江田に深町は席を立った。箸の先には数粒の白米。あれでは味噌汁やお浸しはともかく、カマスや煮物は食べられない。数秒後、深町は食堂のお姉さん(おばちゃんと呼んではいけない…かどうかは知らないが)から借りてきた物を海江田の前に突き出した。海江田は何だかすごく嫌な物を見る眼でそれを眺めている。 「ほら、これ使えよ」 「…箸で充分だ」 海江田はぷいとそっぽを向いて、また少しずつ食事を口に運び始めた。深町が手にしていたのはスプーンとフォーク。右利きの海江田に左手で箸を使えと云う方に無理があると考えた深町の気遣いだった訳だが、子供の様にスプーンやフォークを使って和食を食すと云う行為は海江田の美意識では許し難いものらしかった。 ゆっくり、ゆっくり、本当に少しずつ白米を口に運び続けている海江田を、深町はいらいらと見守った。自分のトレイはとうにカラだ。しかし海江田は冷めかけた食事を黙々と口に運び続けている。 「あーもう我慢ならねえ!」 深町は遂に我慢し切れずに、海江田から箸と茶碗を取り上げた。 「海江田、口開けろ」 ザワ… 食堂内にざわめきが広がった。深町は奪い取った茶碗から一口分の白米をすくいとって海江田の口元に突き付けている。 「深町、食事くらい自分で…」 「えぇい、やかましい! ちんたらちんたら朝までかかって食う気か! 誰かこいつを取り押さえろ!」 席を立ってしまいかねない海江田に深町が叫ぶ。反射的に海江田の隣に座っていた者が、海江田を取り押さえてしまった。白い沈黙が満ち、その某君が自分の行動の結末を想像してたらたらと冷や汗を流す中、深町はにかっと笑ってさらに海江田を促した。 「ほら、おとなしく食えって。あーんしろ、あーん」 深町の暴言に、周囲にいる者にとっては無限とも思われる時が流れた。やがて海江田は諦めたのか、おとなしく、そっと口を開いた。 ぱく もぐもぐと白米を咀嚼する海江田を見て、深町は満足そうに笑った。失神せんばかりの某君に、もう離してやっていいぞと機嫌よく云う。 「腹は減ってたんだろ? 朝メシは食っていかなかったからな」 もう一口、白米を海江田の口に押し込んで、深町は次は何が食いたい? と海江田に尋ねた。 「…カマス」 「よしよし」 ぴんと張りつめた緊張の中、優位に立てた事が嬉しくて仕方ない深町だけが異様に和やかな食事風景が繰り広げられていった。 「遠慮するなって!」 「丁重にお断り申し上げる!」 午後の授業開始直前の出来事。教室内では学友達が、何が起こっているのかと遠巻きに眺めている。 「その手じゃノートは取れんだろう!」 「お前の字は解読出来んのだ!」 深町が海江田にノートを取ってやると申し出たのが十分程前。それから延々とこのやり取りが続いている。 「人の親切は素直に受けろ!」 「気持ちだけ受け取っておこう!」 「どうやってノートを取るつもりだ!」 「左で書いても、お前の字よりは解読し易い!」 「云ったな、貴様ッ!」 海江田にしてみれば、完璧を誇っている自らのノートに解読不可能な文字が並ぶのが耐えられない、と云ったところだ。深町は深町なりに内容的には独創的ないいノートを持ってはいるのだが、時折自分でも判別不可能な文字がある事は否定出来ない。それなら、後で清書し易い分、不自由でも自分の手でメモを取りたいと思うのは人情だろう。 「お前、かわいくないぞ!」 「男がかわいくなくても罪にはならん!」 「じゃあ、女はかわいくなきゃ罪なのかよ!」 だんだんと論点がズレていく中、先刻からその様子を見守っていたギャラリーの中から、意を決したように進み出た者があった。 「海江田、よかったら俺がノート取ろうか?」 「…君が?」 勇気ある青年はうなずいた。 「少なくとも、深町よりは字は綺麗だと思うよ」 うがーと怒る深町の顔を軽くノートではたいて制した海江田の眼の前に、彼は証明するかの様に自分のノートを広げて見せた。ノートには深町の、と云うより海江田のものにも勝るとも劣らない見事な文字が並んでいる。 「…なるほど」 海江田は感心した様に呟き、彼にノートを手渡した。 「よろしく頼む」 「ま、任せておけって!」 彼はやたらと嬉しそうに自分の席へ戻って行った。 「海江田ーッ!」 深町はまだ唸っている。それを完璧なまでに無視して席に着いた海江田は、ノートを渡した人間の顔にやたらと見覚えがあるのは何故だろうと考えていた。よくよく考えて思い出した事は、朝な夕なに海江田の部屋に乗り込み、掃除やら何やらをあっと云う間に片づけて行く謎の集団(一般的には親衛隊と呼ばれているが、海江田がその存在を理解していないのは確かである)の中にその姿を見ると云う事だった。その彼が、海江田のノートを前にしながら、自分にペン習字を習わせ続けた厳しい母親に、感謝の涙を零している究極の親不孝者だなんて事は、海江田はもちろん知るよしもない。 かっぽーん… 何をどう間違えなくても、そこは浴場だった。昨夜は風呂に入り損ねた海江田が、風呂に入りたいと云うのは当たり前かも知れない。しかし…。 「ついてこんでいい!」 「一人で入れるわけねーだろうがよ」 どうせ俺も入るんだからと海江田について浴場まできた深町に海江田はまだぶつぶつ云っている。 「お前、いい加減に現状を把握しろよ…」 さすがの深町も呆れ返って云った。そりゃあ、大の男がまるで幼児並の扱いを受けたら腹も立つだろう。しかしそれも時と場合によるではないか。 「背中も一人じゃ流せねーだろうし、どうせお前のこった、髪も洗いたいとか云うんだろ? 風呂なんか両手使えなきゃ入れんぞ。だからおとなしく手伝わせろ、な?」 一瞬言葉に詰まった海江田に深町は溜め息をついた。まさか、こいつがこんなに聞き分けのない奴だったとは思っても見なかった。何で俺がこんな当り前の事をこいつに云って聞かせにゃいかんのだ…と深町は心の底からそう思った。そんな深町の苦悩など知ったこっちゃない海江田はようやく観念したらしく、しぶしぶ浴室へ入って行った。蛇口の前に座り、ざばざばと湯をかぶる海江田を見ていると無性に腹が立ってくる。深町はたらいを掴むと、いきなり海江田の頭から湯をかぶせた。 「──!?」 驚く海江田の頭を押さえつけ、シャンプーをぶちまけて思いっきり掻き回す。 「ふ、深町ッ!?」 「動くんじゃねーぞ!」 がしがしがし 「い…痛い、眼に入ったッ! 深町!!」 抗議の声も何のその。深町は最後の仕上げとばかりに五、六回湯を浴びせると、終わったぞと海江田の背を叩いた。ところが、いつまでたっても海江田は頭を上げない。いぶかしんで覗き込むと、海江田はぼろぼろ涙を零していた。 「か、海江田?」 「深町ー…、それって両目に入ってるぜ。もうちょっと丁寧にやってやれよ、かわいそーだろうが」 何事かとやってきた人間があきれた様に云う。 「あーあ、真っ赤」 「ひでーなぁ、今度からは俺に云えよ、海江田」 みんな口々に云って深町を睨む。俺が何をしたって云うんだと深町も言い返したかったが、多勢に無勢、分が悪いのは自分である。 「あーあーあー、悪かったよ。後で目薬もらってきてやるから」 やっと涙の止まった海江田は無言だった。 「あ、背中流してやるぞ」 誰かがそう云った。すっかり外されてしまった深町はふてくされて湯舟に浸かった。そして、ふと思い出す。 「おい、海江田。湯舟に浸かんのはやめとけよ。炎症はあっためると悪くなるぞ」 む…っ 露骨に嫌そうな海江田の顔。深町はまた溜め息をついた。綺麗好きなのはいいが、こんなに風呂が好きで何でこいつは海上自衛隊にいるんだろう…。しかも志望は潜水艦隊、こんな事でやっていけるのか…? 「海江田って、風呂好きだよなぁ」 ほかの連中もそう思っていたのか皆一様にうなずく。 「毎日入ってるもんなぁ」 「あのさ…それって何かに似てねーか? えーと、あ、ドラえもんに出てくる…」 「しずかちゃん!」 「じゃ、さしずめ深町はジャイアンかー?」 げらげら 「俺はどうせジャイアンだよ! ほら、海江田が庶民の会話について来れなくて困ってるぞッ」 深町はさらにふてくされて湯舟に潜った。爆笑の中、一人話題から取り残された海江田は、ただきょとんと 座っていた。 海江田の負傷発覚から早数日。江田島にも週末が訪れ皆それぞれ外出の支度に忙しい。大体において幹部候補生は、週末用の仮宿として、何人かでアパートの様なものを借りるのが通例になっている。いや、アパートと言うよりは下宿と云うところか。江田島には現在の幹部候補生学校が海軍兵学校だった時代からのそう云った家屋が多数残っており、部屋を借りるのはそう難しくない。もちろん海江田も例外ではなく、深町の他数名と近くの下宿を借りていた。 「海江田、支度できたか?」 わざわざ部屋まで呼びに来た深町に、海江田は云うまでもないと云った様子だった。 「荷物は俺が持って行ってやるよ」 同室の者が気を利かせて、素早く海江田の荷物を持って出る。いまだにその待遇に慣れる事の出来ない海江田は、少しばかり難しい顔をした。 「俺達は今夜飲みに行く予定なんだが、お前はどうする?」 外出前の集合地に向かいながら、深町は海江田に尋ねた。 「いや…今回はやめておこう」 少し考えてからそう答えた海江田を、深町は賢明だと冗談で褒めてやる。それにはもう何も反応せずに、海江田は途中書店に寄りたいと告げた。 「だから、先に行ってくれ」 「ああ、構わんが」 海江田のこの手の寄り道は今に始まった事ではない。財布を除いた荷物を海江田から奪い取ったまま、深町たちは先に下宿に到着した。シャワーを浴びる者、荷物を広げる者、行動はまちまちだが、教官の眼を一切気にしなくて良い解放の時をそれぞれ楽しむ。完全禁酒の江田島生活で酒が飲めるのもこの時だ。下宿のおばさんが気を利かせて冷やしておいてくれたビールに必然的に手が伸びる。小一時間程遅れて海江田が到着した時には、いくつもの缶がテーブルの上に並んでいた。 「…お前達、今夜飲みに行く予定だと聞いたが?」 呆れた様に云う海江田に前戦だと機嫌よく答えて、深町は海江田の手の中の包みに気付いた。海江田は出来上がりかけた学友からは外れて静かな場所を選ぶと、腰を落ち着けて包みを開いた。中から現れたのは綺麗にカバーの掛けられた数冊の新書サイズの本。海江田はその内の一冊を選ぶとページを繰った。 また何かこ難しい本を買ってきたんだろうと深町は気にもとめなかったが、一番海江田に近い位置に座っていた者が、何を思ったかビールの缶を片手に海江田に近づいた。 「何読んでるんだ、海江…だッ!?」 ごとっ その手にあったビールの缶が床に転がって滲みを作った。 「なーにやってんだよ!」 何人かが慌てて雑巾を取りに走る。深町は空になった缶を手近なごみ箱に放り込んで、立ちすくんだまま動かない学友に歩み寄った。 「もう回ったのか?」 深町の声に我に返ったように学友は振り向いた。その眼が何か恐ろしいものでも見たかのようで、深町は示されるままに海江田の読み耽っている本のページに視線を落とした。 げっ 深町は何も持っていなかった事を神に感謝した。そこには信じられない物があった。 「か、海江田、それは…」 「うむ、先日会話の意味が分からなかったのでな」 その手にあったのは、信じ難くも見慣れた絵。海江田が購入した本は、戦略論でも国際法でもトルストイでもチェホフでもなく…ドラえもんだった。 「お前、どのツラ下げてそれ買ったんだ?」 「それなんだが、生憎とこの作品の事は知らなかったのでな。店員に尋ねて出してもらったんだが、余りにも冊数が多くて。どうしようかと迷ったが、取りあえず一冊だけ買ってみた」 それを聞いて、深町は安堵に胸を撫で下ろした。一冊だけと云う事は、後の本はいつも通りの選択だろう。 「しかし、何だな、確かにこのジャイアンとか云う少年は深町の少年時代を彷彿させるな」 海江田は感慨深げに云った。 「作品としては夢もあるし、多少主人公の性格に問題はあるが、露骨な嫌らしさもなく、おおむね良い」 深町は眩暈を感じた。子供向けの漫画を書評するな、漫画は漫画として笑い飛ばせ! と云ってやりたかったが、あまりの脱力感に声もない。 「…それで? 気に入ったから揃えるか?」 「まさか」 海江田は涼しい顔で云った。 「ただ、将来子供でも産まれた時に、読ませてもいいものの中に入れておいてもいいと思うだけだ」 そのまま平然と読み続ける海江田に、薄ら寒いものを感じた深町達は、それを飲んで忘れてしまえとばかりに早い酒盛りをすべく、下宿を飛び出した。 「…しかし、この『しずかちゃん』とやらが納得いかんな」 一人残された海江田の呟きを聞く者はいなかった。 待望の二週間目。深町は身も心もどっぷりと疲れ果てていた。ただただ海江田の全快が待ち望まれる。最低ラインが二週間と云う事は、二週間では完治しない可能性もあると云う事で、深町はもしかしたらまだ続くかも知れない苦悩の日々を思ってマリアナ海溝より深く沈み込んでいた。このままいけば圧潰危険深度まであと僅かと云ったところだ。ほかの連中は海江田の完治を信じて疑わず、なにやらこそこそと走り回っている。 「海江田が帰ってきたぞー!」 ようやく戻った海江田は、包帯も何もかもとれたすっきりした様子で、深町は一瞬、気が遠くなるほど嬉しかった。 これであの訳の分からない生活から解放される! 「よかったなぁ」 「海江田、こっちこっち」 皆何やら嬉しそうに海江田を引っ張って行く。何の気なしにその後をついて行った深町は、驚いて立ちすくんだ。到着点は海江田の部屋。驚いたのはその中だった。 「朝から用意したんだ」 部屋の中にはアルコールこそなかったが、ジュースや食べ物が並べられ、全快おめでとうの札までかかっている。 「食堂の人にも内緒で手伝ってもらったんだ」 海江田も驚いて眼をしばたかせている。 「ほら、海江田、礼の一つも云ったらどうだ?」 深町は最後のお節介だとばかりに海江田の背中を小突いた。 「あ…」 海江田は言葉に詰まり、立ち尽くす。注がれる視線は何だかとても暖かな物ばかりで、海江田は赤くなりながらやっと呟く様に云った。 「…ありがとう」 「よーし、飲むぞ…と云っても酒はなかったけか」 深町の一言に笑いが満ちる。かつてない大騒ぎに教官達も眼をつぶったとかつぶらなかったとか。 さて、これですべては終わったかのように見える。実際終わったはずだった、が…。 「おわ──ッ!」 青く澄み渡った空を裂く叫び。 「大変です、教官!」 「深町が、深町がッ」 「板、踏み抜いて落ちました!」 真の悲劇はその夜から始まった。 「…難儀だなぁ、深町」 しみじみと、気持ちが悪いくらい気の毒そうに海江田が云った。深町の傷は板を踏み抜いた事による右足部裂傷及び左腕の単純骨折。全治三週間ないし四週間との診断が下っている。無論、松葉杖は免れなかった。 ベッドの上にまぐろの様に転がったままの深町の視線は、海江田の持ってきた物に注がれている。 「海江田…それは何だ?」 恐る恐る尋ねる深町に海江田はにこにこと答える。 「見た通り、洗面器とタオルだ」 「だから何でそんなもん持ってきたんだ!」 「決まっているではないか」 答える海江田があまり嬉しそうなので、深町は不自由な身体で後ずさった。 「食事介助は必要なさそうだが、それでは完全に風呂には入れんだろう? せめて身体くらいは拭きたいだろうと思ってな」 悪い予感がする… 「海江田…まさかと思うが…」 「おお、遠慮するな、深町。恩返しだ、身体ぐらいいくらでも拭いてやるぞ」 にっこり 海江田はそう宣って大変ウツクシク微笑んだ。 「海江田、気持ちだけでいいッ! 気持ちだけでッ! おわ、よせ、こら、海江田あ──ッッ!」 「遠慮は無用だぞ、深町」 「わ──!」 深町の叫びが、今度は夜の闇を裂いた。 「俺達は善意だったよな…」 深町の部屋の前の人だかりの内の誰かがそう呟く。 「海江田も善意なんだよ…きっと…」 でも善意に見えないのは何故だろう…と、皆一様に深ぁぁい溜め息をついた。 世話を焼かれていた海江田が、深町とは云わず誰かの世話を焼けるのが嬉しくて仕方ないだけだと云うことは海江田自身しか知らない事である。 |
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