□■この上なく甘い1日■□
 防衛大学校。
 はて、以前にもこんな書き出しがあったような気がするが、忘れた事にしておこう。
 とにかく、防衛大学校。
 果たしてここは日本か、と思われるような広大なキャンパスに、何百、何千とも知れぬ日本男子(…以外もいたりするが)が生活しているそこ。
 外部との接触が殆どない為、一体そこでどんな日常が繰り広げられているかは謎に満ちている。
 健康かつ健全をモットーに…が、しかし、そこに生活する男子達が、健康はともかく、健全であるなんて事には、甚だ疑問感じる次第である。
 一年生は上級生に必ずセマられる、それが嫌な奴は四階の窓から──1年生の部屋は四階であるらしい──飛び降りて逃げるので骨折する…これは地元横須賀で、まことしやかに囁かれているウワサ、である。(事実だ)
 さて、昭和四十年代半ば。
 その防衛大学校に、抜きんでた二つの才能が存在した。
 現役海上自衛隊幹部の息子、代々海軍軍人の家柄に生まれ育ち、まさにサラブレッドと呼ぶに相応しい、海江田四郎学生。
 かたや、下町は浅草、観音様のお膝元、のびのび育った江戸っ子気質、喧嘩っ早くて情に脆い、三度の飯より祭り好きの深町洋学生。
 育ち方も性格も、一昔前なら住む世界すら違うとさえ云われてしまったであろう二人だったが、何故かつかず離れず、いつしか親友とまで呼ばれるようになって、当人同志を困惑させていた。
 それでも、そう呼ばれる事に対する不快感がなかったせいか、彼等はそれからもつかず離れず…。
 そんなある日の事だった。
 その日は外出日で、深町はどこに出掛けようかとぼんやり考えながら、ぽくぽくと廊下を歩いていた。
 ぽくぽく歩きながら、ふと見ると、窓辺に立って外を眺めている海江田の姿が眼に入った。大方、自分と同じように、今日一日の身の振り方でも考えているのだろうと、深町は何の気なしに海江田に近寄った。
 ところが。
 背後まで来て声をかけようとした瞬間、海江田はこの上なく深ぁぁい溜め息をついて深町を驚かせた。
「どうしたんだ、海江田?」
 思わず口走った深町をちらりと一瞥すると、海江田は再び溜め息をついた。
 何も話そうとしない海江田を、それでも深町は暫く待っていたが、やがて、諦めて踵を返そうとした。
 その時だった。
「深町、今日は何か予定があるのか?」
 それまではうんともすんとも云わなかった海江田に呼び止められて困惑しながらも、深町は正直にこれと云った用事はないと答えた。
「家に帰るんだが…良かったら一緒に来ないか?」
 彼にしては珍しい歯切れの悪さで海江田は云った。
「いいのか?」
 訊ねると海江田はこっくりとうなずいた。
 深町は思案した。別に予定はなかったが、急な事である。しかし、海江田の溜め息も気になった。
「まぁ…それなら」
 深町が云うと、海江田は何故だか安堵したような笑顔を見せた。



 …計られた。
 海江田家の門を潜った深町は、呆然と思った。
 鎌倉の海江田家は『邸宅』だ…とのウワサは聞いていたものの、勿論訪れるのは初めてで、その外観は深町を驚かせるのに充分だった。
 一瞬、自分の生まれ育った風景を思い出す。込み入った路地、今も残る長屋。雑多で賑やかなその風景とは正反対に、静かでいかにも…な土地に建つ洋館。それが海江田家だった。
 眩暈のしそうな大きさの門とそれに続く前庭。玄関を入るとそこはホールになっていて、深町は襲い来る眩暈と倦怠感に耐えながら呷いた。
「四郎さん、お帰りになったのね」
 海江田の母親の言葉と、取り敢えず通された居間の豪奢な暖炉が、危うく深町にとどめを刺すところだった。「皆様、もう御揃いよ。そのままで宜しいから、早く御 席の方へ…御友達もご一緒に」
 そのまま深町は訳も分からず庭へ連れ出され、今度はその庭の広さに泣いた。
 どこまでも広がっているかのようにも思われる庭。
 その中を歩いて深町が連れていかれたのは…。
「海江田、ここって…」
「茶室だ」
 事もなげに海江田は云う。
 深町は茶室に連れ込まれ…。
「ちょっと待て、海江田」
 茶室には色とりどりに着飾った、若い娘達の姿があった。
「これは何なんだ、一体」
「見ての通りだ」
 そりゃあ茶室に集う…と云えば茶会だろうと云う事位は、いくら縁がない世界だからと云っても、深町にだって解る。
「だから、何で俺が…」
 小声でぼそぼそと問う深町に、海江田はにっこりと微笑して見せた。
「細かい事は気にするな」
 無理に決まっている。
 深町はがちがちに緊張して…何をしたかは本人の名誉の為に伏せておく。



 人影もなくなった茶室の中で、やっと解放された深町は疲れきっていた。さざめくような忍び笑いが耳に残って離れない。
「悪かったな、付き合わせて」
 さすがに罪悪感を感じたのか、海江田は深町の顔を覗き込んだ。
「…いいって」
 我ながらくたびれた声で答えながら、深町は考えていた。
 茶をたてたのは海江田だった。
 深町は茶道の事など何も知らなかったが、その海江田の姿は、深町の眼に酷く鮮やかに映った。
 すっきりと伸ばされた背。しなやかな振る舞い…。
「…深町?」
 ぼんやりと考え込んでしまっている深町を、海江田は怪訝そうに見詰めている。
「お前ってさ…」
 深町は呟いた。
「お前って…綺麗だったんだなぁ…」
 呟いた瞬間、深町は我に返った。頭の中で呟いた言葉を反芻してみて青ざめる。
「か、海江田ッ、今のはだな!」
 海江田は、ぽかんと慌てる深町の顔を眺めていた。
「だから…!」
 その時、どうやら我に返ったらしい海江田が、ふいと俯いてしまった。深町は大慌てだった。何とかいい訳を聞いて貰おうと、海江田の肩に手をかけた。海江田は、その手を振り払おうとする。躍起になった深町との揉み合いは暫く続き、やがて、ふとした拍子に二人は畳の上に折り重なるようにして倒れ込んだ。
「海江田…?」
 深町は、その時、海江田が無残なまでに真っ赤になってしまっているのを見てしまった。
 それがまた、酷く綺麗に思えて…。
 深町が海江田の唇に唇で触れたのは、果たして必然であったのか、それは彼等にしか解らなかった。



 後日。
「海江田、何であの時、俺を連れて行ったんだ?」
 ある時、深町は海江田に訊ねた。
「…私は茶席は嫌いではないんだが、その目的が露骨に見合いだったりしたんでな」
「あの中から選べって…そう云う事か?」
 海江田はうなずいてそれを肯定した。
「それで誰か同伴者がいれば、と思っていたところにお前が来たんだ。それにしても…予期せぬ事態を引き起こしてしまった事には、変わりはなかったな」
 深町は笑った。
 笑いながら海江田の肩に回した腕は、振り払われなかった。
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