□■リフレインが叫んでいる■□
 どうして。
 どうして、出会ってしまったのだろう…。



 夜半、痛みに目覚めた。
 部屋の中に、他に目覚めている気配はなかった。薄い布団に潜り込んで、もう一度眼を閉じる。しかし、一向に眠りの訪れる気配はなかった。

 ああ、まただ…。

 波のように、寄せては返す…痛み。
 白昼の出来事。

 あれは、暴力だ。

 そう思いたかった。実際、海江田は傷ついていた。しかし、そうではない何か、身体の痛みではない痛みが、海江田の中にあった。

 深町。

 己を抱いた──無理矢理、身体を開かせた──男の名を、小さく反芻する。その度に、痛みが走った。

 それは、屈辱であった筈なのに。

 男の名には、酷く甘い響きがあった。
 そして、海江田は気付いてしまった。気付かざるを得なかった。

 恋愛感情。

 例え擬似的なものだったにしても、あってはならない、それは背徳の感情だった。
 決してプラトニックなものではない、暗い、肉体的な欲望だった。
 それを『暴力』と云う言葉で覆い隠そうとして、出来なかった。

 何よりもそれは『望んで』いた事。
 他の誰でもなく、自分自身が。
 
 あの時。
 引き裂かれる苦痛の中に、確かな歓喜が存在した。それはもう、否定しようのない事実だった。
 深町の指が、唇が触れる度に、笑いだしたいくらいだった。
 深町の、事が事だけに尚更乱暴な口調。

 感じられんだったら、感じろよ…

 云われるまでもなかった。
 あれ程の悦びが、他にあっただろうか。
 あの時、深町の一挙一動が、絶望的な甘美を海江田にもたらしたのだ。
 その中で海江田は、喘ぎ、もがき、そして…。
 それだけに、気付いた時の深町の表情は忘れ得ない固いしこりとなって、海江田の記憶に刻まれた。

 間違いようもなく、後悔のそれ。

 その瞬間、どこかでガラスの弾けるような音がした。
 それ以来、痛みが海江田に付き纏うようになった。
 それは、あってはならない事だった。
 少なくとも、海江田はそう教育されてきた。人の上に立つ者として。
 海江田に、そんな感情は必要なかった。そして、これまでも、これからも、必要なものではない筈だった。

 それなのに。

 心を水晶のように張りつめ、研ぎ澄まし、感情を制御する事をよしとして生きて来た海江田の中に、一石を投じた存在。

 深町

 彼の存在が、自分の神経をさかなでる事に海江田が気付いたのは、出会ってからほんの僅かの頃だった。
 当然、海江田はその感情を排除しようと試みた。
 しかし、排除しようとすればする程、深町の存在はますます海江田の中に大きな影を落とすようになった。
 そして、気付かされたのだ。
 海江田は、自問を繰り返した。

 何故、深町に惹かれるのか。

 転々と寝返りを打ちながら、海江田は考え続けた。
 動く度に、きしきしと軋む身体。
 このままではいつか、自分が霧散する日が来る。
 今までかかってプログラムされて来た、自分の存在が、価値観が、総てが消滅する日が必ず訪れる。

 それも、近い将来。

 海江田は漠然とそう感じていた。
 更に、その日に対する苦痛、恐怖、不安とそして…。

 陶酔

 破滅的な幸福感に、海江田は身を震わせた。



「誰か、海江田の野郎を見なかったか?」
 その日、朝から海江田の姿がなかった。
 深町は内心の焦りを押し隠して、海江田の行方を尋ね回った。
「海江田なら、調子悪いって、休んでる筈だぞ。さっき 医務棟から出て来たところに会った」
 何人目かから、そう云う答えを得て、深町は海江田を捜した。
 当然、いなければならない部屋の中に、海江田の姿はなかった。
 部屋の中はひっそりと静まり返り、簡素なベッドにも主の戻った気配は残されていなかった。
 押し潰されそうな焦燥感に、深町は低く呷いた。

 あの時。

 何故あんな事をしてしまったのか。
 思い出せるのは、汚れた床と、海江田の苦悶と屈辱の表情、そして奪い取った快楽。
 抵抗出来ない海江田を、無理矢理引き裂いた。
 酷く獣じみた衝動。
 それを抑える事が出来なかったのは何故だろう。
 そして今、海江田を見なくて済んでいる事への安堵と、海江田を見つけ出せない事への不安が、同時に深町の中に存在していた。
 この部屋にいても、海江田は戻って来ない。
 漠然とそう感じて、深町は部屋を後にした。



 寒いのか、暖かいのか、判然としない秋の空気。
 学舎からはかなり離れた芝草の上に、海江田は横たわっていた。
 眠っている訳ではない。
 ただ眼を閉じて、背に当たる冷たい土の感触を感じていた。
 何をするでもなく、どのくらいそうしていただろう。

 声

「こんなところにいたのか?」

 声がする…。

 それが誰のものであるのか、海江田は知っていた。低く、少しばかり不機嫌そうな声。
 海江田は眼を閉じたまま、その声を聞いていた。
「海江田…眠ってるのか?」
 傍らに腰をおろす気配。
 それでも海江田は、眼を開かなかった。
 やがて。
 やがて、弱々しい日差しが陰った。
 海江田は眼を閉じたまま、自分の唇に重ねられた唇の感触を感じていた。
 ほんの僅かの間触れていた唇が退くのと同時に、海江田は閉じていた眼を開いた。視界の中で、深町は少なからず驚いているようだった。
「起きてたのか…?」
「ああ」
 深町の言葉に、海江田は小さく、しかしはっきりと答えてやった。
 深町は、暫く無言で海江田を見詰めていたが、やがて呟くように云った。
「何で…逃げない」
「逃げて欲しかったのか?」
 海江田は云った。そして、自分の言葉に深町が動揺しているのを感じて満足した。
「馬鹿野郎、本気にするぞ」
 吐き捨てるように深町が云う。
 隠し切れない動揺の中で、それでも深町は視線を反らさない。
 それを聞いた海江田は、口元に微かな笑みを浮かべさえした。
 そして囁く。
「本気に…すればいい」
 そう云って、海江田は身を起こした。
 驚く深町にも構わず、その頬に触れ、首筋を軽くなぞる。
 その手を、深町が捕らえた。
「本当に、本気にするぞ?」
 次の瞬間、海江田は勢い良く地に押し倒されていた。
 噛み付くように口付けられて、思わず吐息が零れた。
 深町の指が、飢えた獣のように、海江田を犯していく。
 海江田は声を殺そうともせず、深町の望むままに喘いだ。
 生理的嫌悪を感じなかった訳ではない。しかし、それを上回る破戒願望が、海江田の中でふつふつと息づいていた。

 そうだ

 海江田の中で、誰かが囁く。

 そうだ、それで解放される。

 解放。
 誰が、何が、何から解放されると云うのか。
 海江田は問う。
 なかなか答えは与えられず、その思考は直に深町の手で寸断されてしまった。
「あ…ああ…ッ!」
 深町の手で追い上げられ、海江田は狂おしい肉体の欲にもがいた。
 半ばはだけられただけの衣類が、動きに合わせて肌と触れ合うのが堪らなかった。
 寸前で逸らされて気付くと、深町の手が、海江田の下肢からそれを覆う総てを奪い去ろうとしていた。
 ふと、そうされている自分の姿を想像して、余りの滑稽さに笑いだしそうになる。

 何たる事か。
 今のこの状況を、誰が想像し得ただろう。

 ふいに。
 ふいに、腹部への口付けを受けて、海江田は身を竦ませた。
「…う…ンッ」
 それが何度も繰り返されながら、少しずつ場所を変えていく。
 少しずつ、少しずつ…より敏感な場所へ。
「ふ…深町…ふかま、ち!」
 自身を包み込まれる感触に息を飲む。
「あぁ…ふ…」
 煩わしい程に甘い吐息が零れる。
 深町は、今度ははぐらかそうとせず、海江田を追い上げた。時折、軽く歯を立てられて、海江田は臆面もなく歓喜の声を迸らせた。
 そして…。
「──…ッ!」
 最奥に打ち込まれる楔。
 引き裂かれる苦痛に耳鳴りがする。

 それでも。

 乱暴とも云える深町の扱いに苦痛の声を噛み殺しながら、海江田は思うが侭に深町を感じた。背に腕を絡め、布越しにその筋肉の流れを辿る。
 汗の匂いと芝の青臭さ。
 そして悟った。
 自分が何故、この男に惹かれたのか。

 猛々しい雄の凶暴さ。
 荒々しいまでの感情の発露。

 自分には得られなかったもの、それを今、この男は持っている…。

「大丈夫か、海江田?」
 その声に、固く閉じていた眼を開く。
 気遣わしげな声。しかし、その眼は獣の猛々しさを失ってはいない。

 そうだ

 欲しかったものはそれ。
 寸分の狂いもないプログラムではなく、雄である事の出来る自分。
 求めても得られなかったもの、それは理想と云う遮蔽物の影に隠されていた自由。

 今までは。

 これからは違う。
 海江田は喉の奥で、くぐもった笑い声をたてた。
「大丈夫か、だと?」
 海江田は笑った。
 計算でも制御からでもない、挑みかかる為だけの、雄の吠吼。
「私が、大丈夫か、だと。笑わせるな、深町」
 繋ぎ止められたまま、軽く鼻を鳴らして挑発する。殊更に嘲笑の表情を作って見せる。
「私が女のように、涙でも見せれば満足するような腑抜だったか、お前は」
 ゆっくりと眼を細める。
 深町の表情に、視線に、労りとはまったく無縁のものがよぎったのを、海江田は見逃さなかった。

 そうだ

 歓喜に身体が震えた。

 そうだ、深町

「上等だ、海江田」
 低く。
 低く、深町が唸る。海江田を威嚇する。
「後で、の泣き言は聞かねぇ。いいな」
 云い終らぬ内に、再開された行為。
 先刻までとは比べものにならないその激しさに、海江田は呷いた。
 食い縛った歯が、きり、と小さな音を立てて軋んだ。苦痛が極限を超えて、視界が赤く染まる。
 それでも。
 それでも、赤く染まった視線が深町のそれと出会う度に、海江田は口元に笑みを刻んで見せた。
 その表情に煽りたてられるかのように、深町の行動は激しさを増す。

 そうだ、そうだ、そうだ…!

「深町…ッ!」
 海江田は叫んだ。
「もっとだ、もっと…もっと激しく…ッ、私を…」
 足りない酸素を補おうと、海江田は大きく喘いだ。
「私を…壊せ!」

 それが望み
 それが答え

 人形の家に閉じ込められた操り人形。人形師の云うなりに、操られるままに、望みのままに。
 今までの自分。
 自我に基づかない強さが、本当の強さであるわけはない。
 ずっと、気付いていた。
 気付いていて、気付かない振りをしていただけだ。
 他人の敷いたレールから外れる事を、恐れていただけだ。
 そして、そうする事しか出来ない、自分自身への嫌悪からも眼を逸らして来たのだ。

 だから、この男が目障りだった。
 だから、この男が欲しかったのだ。

 自分の得難かったものを持つ、この深町が欲しかったのだ…。



 ぜい、と喉が掠れた音を立てる。
 組み敷いた身体は、時折、苦痛を訴えて痙攣する。
 それを感じながら、甘い囁きも、労りもなく、肉体だけの欲望を満たす。
 自分の望んでいたものが、果たしてこれであったのか、深町には解らなかった。
 ただ、明らかであった事、それは海江田が特別であると云う事だった。

 誰に対するよりも深いいらだち、憤り、憎しみにも近い感情、そしてそれ以外の何か。

 それらの総てが、海江田に対してのものだと云う事を深町は知った。
 苦痛から無意識に逃れようとする身体を押えつけて、更に深く侵入する。
 瞬間上がる、微かな悲鳴とは裏腹に、海江田は挑みかかるような不適な笑みを口元に浮かべる。
 恐らく、もう殆ど意識はない。ただ、与えられる苦痛に、身体だけが反応しているようだった。
「海江田」
 その名を口にしてみる。
 その声が届いたのか、海江田が再び笑む。
 いつもの海江田の見せる、アルカイックなそれとは遠い表情。
 それが深町を煽る。
 そうだ、と思う。
 自分は、それが見たかったのだ。仮面の下に隠されてきた、本当の海江田の表情を。穏やかで作り物の表情をした海江田ではなく、その影に潜んだ本当の表情が見たかったのだと。



「海江田──ッ!」

 深町が叫んでいる…。

 海江田は、その声を聞きながら微かに眼を細めた。

 深町は変わらない。声の中に総ての感情をぶちまけて、海江田に向かって吠え立てている。

 そうだ
 そうだ、深町

 海江田は思った。

 追って来い
 どこまでも、私を追って来るがいい…

 あの日から変わった自分。
 自ら糸を切り、人形師の手から逃れて、一人で歩き始めた操り人形。

 もし

 もしあの時、深町と出会わずにいたら。
 きっと、今の自分は存在しなかった。
 いつまでも、操り人形のまま、それを疑問にも思わず、疑問に思ってもそれを押し殺し、云うなりに生きて…。
 海江田は声をひそめて笑った。
 深町に出会わなければ、自分は何の不満も持たずにやまなみを沈め、そのまま米軍に籍を置いていただろう。
 言葉を借りれば、世界は平和なままだった…と云うことになる。
 皮肉な事に。

 だから深町、私を追って来い

 反芻する。
 その名には、まだ酷く甘い響きがあった。
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