□■覇者■□
 その部屋の奥に、ナガブチはいた。
 ドアに背を向けたまま、殊更豪華でもなく、また質素過ぎる事もない調度に囲まれて、グラスを傾けている。窓に面して座っているのにも関わらず、窓の外の景色を楽しんでいるふうでもなく、それといって、大して人待ち顔な様子でもない。
 ただ一人、プライベートな時間を楽しんでいるといった風情で、ナガブチはそこにいた。
 規則正しい靴音がドアをくぐり、絨緞を滑っても、ナガブチは振り返らなかった。
 気配は躇いもせず、ナガブチの傍らへと進み、そこで止まった。
「お久しぶりです、ナガブチ少…いや、中佐にご昇進されたんでしたね」
 静かな、それでいて力のあるテノール。
「そう、そしてこれが久しぶりにして、おそらく最後の一夜になるだろうな」
 そう云いながら、ナガブチはゆっくりと立ち上がり、彼を見た。
「海江田」
「帰国なさるんでしたね」
 喜怒哀楽の欠如したような、アルカイックスマイル。
 ナガブチは苦笑した。
 横須賀に赴任して、この男に初めて出会った時、彼はまだ青年の面差しが抜け切ってはいなかった。それが今では一人前の堂々たる軍人になっている。それでも変わらないのは、彼のその表情だった。

 今も昔も、いつも変わらず、社交辞令の域を出る事のない表情。

 他人に踏み入らせる隙を与えない、東洋的と云えば、これ以上東洋的な表情もないだろう。
 しかし、ナガブチはその表情を崩して見たいとは思わなかった。

 それは、東洋の持つ神秘的な何かに惹かれるからか、それとも自分の中にある東洋が囁くからか…。

 ナガブチは、海江田の顎に手をかけた。それと同時に当然の様に海江田の腕が首に絡んで来る。唇が触れると、直様待ちかねた様な舌が滑り込んで来た。
 初めて海江田を誘った夜、嫌悪されるべき行為を簡単に受け入れてしまった海江田に、少なからず驚かされた事を思い出しながら、ナガブチはその唇に応えた。
 暫、舌の絡み合う濡れた音だけが部屋を満たした。
「君に訊きたい事がある」
 名残惜しげに引き止めようとする唇を、半ば強引に引き離してナガブチは云った。
「…なんですか?」
 まるでおもちゃを取り上げられた子供の様に、つまらなさそうに鼻を鳴らして、海江田が云う。
「ひとつは…いや、これは今更訊ねても詮ない事だ」
 そう今更だ、とナガブチは思った。

 海江田が何故、自分に抱かれるのか、などと云う事は。

「それで?」
 海江田が大して興味もなさそうに、話の続きを促す。
「君は、米国をどう思っている?」
 そう訊ねた瞬間、海江田は笑いだした。
「私が米国をどう思っているか、ですか? そんな事を聞いても何の意味もないでしょうに」
「いや、大いに参考にさせて貰うよ」
 必要以上に真面目を装って、ナガブチは云った。
「米国…そうですね」
 海江田は、なおも、くすくすと忍び笑いながら答えた。
「米国は王者でしょう、常に」
 模範的な答えだと、ナガブチは思った。本心からのものとも、裏があってのものとも思いにくいところまで、実に模範的だった。
 そして、と海江田は更に言葉を続けた。
「貴方は実に米国らしい人だ」
 その言葉に、ナガブチは心臓をわし掴まれる様な衝撃を覚えた。

 海江田は、自分の望む答えを、全て知っているとでも云うのか

 そんな筈はなかった。
 米国は混血の国だ。
 だから、ナガブチも自分の中の東洋の血を疎ましく感じた事はなかった。いや、なかった筈だった。
 ナガブチは、両親を、父を、母を愛しこそすれ、その存在を否定した事はない。それも事実だ。

 しかし、それでも…。

 それでも、ナガブチがより米国的でありたいと願ったのは…。
「どうかしましたか?」
 そう訊ねる海江田の眼が、まるで総てを見透かしているかのように感じるのは、果たして錯覚と云い切れるのだろうか。
 ナガブチは、そんな思いを振り払うかの様に云った。
「私は、いつか近い将来、空母を手に入れて見せる」
 その言葉に、海江田は柔順に頷く。
「貴方なら出来るでしょうね」
「君にも手に入れられるかも知れないぞ?」
 どうしてそんな事を云ったのか…気付いた時にはその言葉はもう口をついて出ていた。
 海江田は笑わなかった。
 笑わないかわりに、微かに肩を竦めて見せた。
「望みませんよ、例え手に入るとしても。私には、海上に君臨するよりも、深く静かに潜る事の方が性に合っている」
「確かに」
 ナガブチは云った。
「確かに、静かな事においては、ディーゼル艦に及ぶものもないな」
 揶揄したつもりだった。貧弱な装備や艦では太刀打ち出来る状況は限られていると。
 それに気付かなかったのか、それとも解っていて無視したのか、それすらも悟らせない朗らかさで、海江田は笑った。
「そうでしょう?」
 今度はナガブチが肩を竦める番だった。
「…時々、君が解らなくなるな。聡明なのか、単なる愚か者なのか」
「私は、ただ、自分が王者ではない事を知っているだけですよ」
 屈託なく海江田は云った。
 そして、ナガブチのタイに指を掛けた。
「最後、なんでしょう?」
 これ以上、ナガブチの話に付き合うつもりはないと、その眼に宿った淫蕩な光が告げている。
 ナガブチはそれに誘われる様に、再び海江田に口付けた。
 海江田の指が、タイを緩め、シャツのボタンを外していく。
 それを感じた瞬間、ベッドまでの距離が酷くもどかしいものに感じられて、ナガブチは促されるまま、ソファーの冷たい革の上に海江田を押し倒した。
 海江田の首筋に啄ばむ様な口付けを幾度か繰り返していると、少しばかりの驚きを含んだ声が耳をくすぐった。
「珍しいですね、こんなところで」
「気にいらないかね?」
「いいえ、どうして?」
 そう答えた海江田の表情は、酷く蠱惑的なものだった。

 誘ったのか、誘われたのか…

 いつものように、緩慢な速度で海江田のシャツを寛げながら、ナガブチはぼんやりと考えた。
 こうして、抱いている時にだけ、海江田は時折冷めた中にも、挑みかかる様な眼をする瞬間がある。ほんの一瞬の内に浮かんでは消えるその表情を見る度に、戦慄が過る。それはまるで…。
「私にも、お訊きしたい事が…」
 徐々に高まっていく、甘く淫らな期待感に呼吸を乱し始めながら、海江田が云った。
 ナガブチの思考は、半ばで打ち切られる事になった。打ち切られた瞬間、それは意味のないものとして、ナガブチの思考の中から抹消された。
「何かな?」
 云いながら、ナガブチは海江田の膝を割った。
 首筋から胸元へと唇を移し、同時に海江田自身に指を絡め、擽るように愛撫する。
「んッ…あ!」
 海江田は隠そうともせず、嬌声を上げた。
 普段の品行方正ぶりからは想像もつかないほど、こうした時の海江田は奔放だった。
 遊びは遊びと割り切った関係を続けるには申し分なく楽しめる相手だった。相手を楽しませる術の他に、自分が楽しむ術も充分に心得ていた。
 いつどこで吐息を零せば男が満足するか、知り尽くしているかのようだった。
 それについて言及するつもりは、ナガブチにはない。割り切った関係だからこそ、歓迎こそすれ。
「何かな?」
 愛撫の手は緩めることなく、もう一度、ナガブチは訊ねた。
「貴方は…」
 ナガブチの指が蠢く度に、海江田の喉が震える。しかし、それが拒否される事はなかった。
「何故、私を抱くんですか?」
 海江田が云う。
 答えは簡単だった。
「君に興味があったからだ」
 さらりとそう答えてから、ふと、ナガブチは最前の疑問を口にした。
「それでは、君は何故、私に抱かれるのかな?」
 海江田は笑った。
 これは作り物ではない、本心からの笑みで。
「貴方に、興味があったからですよ」



 最後の夜は、最後に相応しく、熱く、激しい夜になった。
 憚ることなく嬌声を上げ続けたせいか、痺れた様に喉の感覚がない。
 汗と吐き出した欲望が、部屋の空気を澱ませている。

 少なくとも

 海江田は思った。

 少なくとも、この男は嫌いではない

 体内を掻き回す、男の熱に息を飲む。
 もう声は出なかった。
 男は海江田の身体を楽しむ事に、夢中になっているようだ。
 海江田の身体に君臨する事に。

 『実に米国らしい』

 自身の言葉を思い出して、海江田は忍び笑った。
 房事においてもそうあろうとする男の姿は、滑稽を通り越して愛おしい程だった。

 私は王者ではない

 本心からそう思う。そしてまた、自分が王者である必要もない事を、海江田は知っていた。
 しかし…。
 絶対的な力を持つ存在は、その力を打ち砕いた瞬間の悦びを知らない。
 海江田はせり上がって来る絶頂感に、最後の気力を振り絞って耐えた。
 同時に男も微かな呷きと共に果てる。

 王者でなくとも、覇者となる事は出来る…

 熱い息を吐きながら覆い被さる男の背を、聖母の優しさで抱いてやる。
 その時、海江田は知らず知らず、口元に淡い笑みを浮かべていた。
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