□■pandora's box■□
ACT 1  箱

「内海、それなんだ?」
 その声に内海は振り返った。
 狭い士官寝室の中。声の主は副艦長の山中である。
 山中は、与えられた僅かな休息時間を消化するために、何をするでもなく粗末なベッドに退屈そうに横たわって身体を休めていた。
「これ、ですか?」
 内海は今までもてあそんでいた、手の中の小さな箱に視線を落とした。
 何の変哲もない、手の中にすっぽりと納まってしまうくらいの小さな木の小箱。
「いつも持って乗るだろう。お守りかなんかか?」
 山中の問いに、内海は小さく笑った。
「さあ、何でしょうね」
 そう答えて立ち上がる。
「おい…」
 山中が身を起こしかける。それを手振りで制して、内海は云った。
「当ててくださいよ。俺はそろそろ行かないと。交替に遅れる訳にはいかんでしょう?」
 そう云いながらも。
 教える気はなかった。山中がその箱の意味を捜し当てる可能性もないだろうと思った。知られてはいけないのだ。誰にも…。
 内海はその箱をポケットに押し込んで、ドアのノブに手をかけた。
「ケチだな」
 じゃあがんばって当てるか、冗談のようにそう云って山中は笑った。
 ドアを閉じる瞬間、背後で山中が寝返りを打つ気配があった。



ACT 2   ゼウス

 発令所は静かだった。時折発せられる支持と復唱、低い機械音がすべてだった。
 足を踏み入れて、どきりとする。
 海江田の姿がそこにあった。
 当然の事だった。
 山中が休憩に入っている今、海江田が発令所にいるのは当たり前だった。それなのに…。
 内海はそれ以上進めなくなっていた。その場に立ち尽くして、海江田を眺めていた。
 海江田は用意されている椅子に深く腰をおろし、軽く足を組んでいる。目深に被った制帽。何かを考え込んでいるかのように伏せられる瞼。報告を聞き、素早く正確な指示を出す、ふとした折りに見せる仕草すら…。

 なんて…
 なんて優雅な人なんだろう…

 どんなに努力しても、きっとこの人にはかなわない。
 神にも等しい存在。
 内海はポケットの中に忍ばせた小箱を握り締めた。
「航海長、どうかしたのか?」
 いつまでも立ち尽くしている内海に気付いた海江田が、怪訝そうな顔をする。
「い…いえ」
 慌てて持ち場につく。心臓が止まりそうだった。
「そうか」
 安堵の声。
 酷く息苦しかった。

 いっそ、憎んでしまえれば良かったのに…

 嫉妬。
 この醜い感情に気付いたのはいつだっただろう。
 敬愛の対象である海江田が、同時に嫉妬の対象である事に気付いたのは…。
 致命的な二律背反。
 何故、こんな事になってしまったのだろう…。



ACT 3   プロメテウス

 熱いシャワーを頭からかぶる。
 入浴のために与えられている時間はほんの僅かだった。
 ふと、人の気配を感じて、内海は顔を上げた。
 カーテンの外を窺うと、山中の姿があった。
「あ…」
「…副長」
 山中は、少しばかりきまりの悪そうな顔をして立っていた。
「いたのか」
「いけませんか?」
 そう云うと、山中はますます困ったように頭を掻いた。山中は、誰もいないかと思ったんだと、言い訳のように呟いた。
 内海は、そのままその場に立ち尽くしている山中に云った。
「シャワーでしょう? さっさと入ったらどうですか。時間、なくなりますよ」
 キツい云い方だった。            
 神経が苛々と尖っていて、どうしようもなかった。その苛立ちの原因は解っていると云うのに、それを排除する事ができなかった。
 いつにない事に、山中は酷く驚いたようだった。
「内海、どうかしたのか…?」
 内海は答えなかった。
 答えられなかった。
 無言のまま、内海は再びシャワーの下に立った。
 山中はその後もしばらくためらっていたが、やがて衣服を脱ぐ気配が感じられた。山中は、それ以上何も問わなかった。
 やがてカーテンが引かれ、隣のシャワーのコックを捻る音がする。
 しばらくは、シャワーの湯がタイルを叩く音だけが響いていた。山中は無言だった。
 ちらりと、山中の方を伺って…息が止まりそうになる。
 その背に、もうほとんど癒えて消えかかってはいるが、まだはっきりと見る事のできる幾筋もの傷跡。そして、右の肩口には楕円形に内出血の跡が見てとれる。おそらく歯形であろうそれから、内海は眼が離せなくなっていた。

 紛れもない、情交の名残。

 一瞬、眼の前が紅く染まった。

 嫉妬。
 気が狂いそうな程の。

 内海は乱暴にシャワーを止めた。
 カーテンの外に出て、素早く衣服を身につける。
 もう、一秒たりともそこにいたくなかった。嫉妬の余り、何を云ってしまうか解らなかった。きっと、ろくな結末にはならないだろう。それだけは、はっきりしていた。
 解っている。
 自分自身に何度も云い聞かせてきた。

 それでも…。

 出ていこうとした内海を追いかけるように、背後で山中が何か云ったようだったが、内海の耳には届かなかった。



ACT 4   パンドラ

 久々の上陸だった。
 嬉しい事のはずなのに、内海は素直に喜ぶ事ができなかった。
 大地を踏み締めても、何の感慨も沸かなかった。
 上陸の際恒例のお祭り騒ぎに引き込まれても、内海の心は晴れなかった。
 シャワーでの光景が、眼の奥に焼きついて離れなかった。
 思い出しただけでも、頭の中を掻き回されるような混乱した感情が湧き上がってくる。
 耐えられずに、内海は飲んだ。普段なら飲まないような強い酒を、しこたま流し込んだ。
 その場に海江田と山中の姿はなかった。それが、また堪らない苦痛だった。
 どれほど、時が過ぎただろう。
 騒ぎの中から一人消え、二人消え…残る者も疎らになっても、内海は一人で飲み続けていた。
 もう自分がどのくらいの量を飲んだのか、何をしているのかすら解らなくなっていた。
 突然。
 突然、内海はその手からグラスを取り上げられた。許容を越えたアルコールに濁った思考で、消えたグラスの行方を追う。
「いい加減にしたらどうです?」
 なかなか焦点を結ばない眼が傍らに立つ男の姿を捕らえるのにしばらく、それが水測長の溝口だと理解するのにまたしばらくかかった。
「いくらなんでも飲み過ぎです」
 取り上げられたグラスを取り戻そうと手を伸ばす。その手は溝口に阻まれた。
 かっとなって立ち上がる。殴りかかろうとした手を溝口は捕らえた。
「出ましょう」
 内海は、そのまま無理矢理表に連れ出された。



ACT 5  エピメテウス

「大丈夫ですか?」
 遠い声。こだまのように頭の中でエコーがかかる。
 気分は最悪だった。
 公園の芝の上に転がって、内海は呷いた。
 熱い風が、海の匂いを運んでくる。
 汚れきった、ヘドロの海。清涼さには程遠く、生臭い潮の匂い。

 何故、こんな事になってしまったのだろう

 答えのない問い。
 山中に対して抱いている想いが、恋愛感情だと気付いた時、同時に山中の視線の先にはいつも海江田の姿がある事にも気付いた。山中の心が海江田に向けられている事にも。
 どうしようもなかった。

 お守りかなんかか?

 木の小箱。それは想いを封じ込める為のものだった。
「確かに…お守りかもしれないな…」
 呟き。
 『今』を壊さないための…。
 ふいに、頬に当てられた冷たい感触に、内海は飛び上がった。
「眼、覚めました?」
 ジュースの缶を持った溝口だった。起き上がってそれを受け取る。
「何があったのかは知りませんが…」
 内海の隣に腰をおろしながら、溝口は云った。内海は黙ってジュースの口を開けた。
 静かだった。
 街は眠りについていた。
「あのさ…」
 気付いた時には、言葉が口をついて出ていた。
「好きな人がいるんだ」
 話し始めたら止まらなくなった。溝口は黙って聞いていた。
「でもその人は好きな人が他にいるし、俺なんか入る余地もないんだ…」
 そう云って、内海は再び芝に転がった。
「不公平だよなぁ…あの人にはかなわないのが解ってるんだから」

 それは自分だけじゃないけれども

「側にいたのは、俺の方が先なのにさ」
 でも、恋愛は先着順ではないのだ。
 そう云うと、溝口の手が優しく頭の上におりてきた。
 それが、酷く心地よい。
「溝口、お前優しいなぁ…」
 本当に心地よくて…。
「…航海長?」
 溝口の声。
「航海長、寝ちゃったんですか?」



ACT 6  パンドラの箱

「全員、退艦終了しました!」
 揺れるゴムボートの上、全員の視線は『やまなみ』に注がれていた。
 自動操縦で沈降してゆくその姿を、内海は静かに眺めていた。

 自らの手で沈める友。

 その姿は酷く痛ましかった。
「内海」
 振り返ると山中がいた。
「寂しいものだな、こうして今まで生死を共にしてきた艦を見送るのは」
「そうですね…」
 やがて、やまなみの姿は波の下に消えた。
 内海は微笑した。
 ポケットの中にいつも忍ばせてあった小箱。それは、やまなみの中の内海の机の上にある。やまなみと共に、二度と誰の眼にもとまる事のない深海に沈んでいく。

 最後の選択

 そうする事を選んだのは、内海自身だった。
 自らを解放する為に。
「副長、あの箱が何だったか、解りましたか?」
 ふいに、内海は訊ねた。山中は何の事か理解できずにしばらく戸惑っていた。
 何年も前の事だ。それも当然だったかも知れない。
「あ…ああ、お前がいつも持ってた、あの箱」
 そういえばそんな事もあったなと、しばらくして、ようやく思い出したように山中が云った。
「何だったんだ?」

 あれは
 あれはパンドラの箱
 醜い感情、殺さなければならなかった想いを封じ込めた……

「パンドラの箱です」

 もう、二度と…開かれる事はない
 その奥底に、希望は存在したのだろうか

 不思議そうな顔をしている山中を見て、内海は笑った。
このホームページはMacintoshPowerPC8500/OS9.1、AdobeGoLive5.0で作成、NN4.7及びIE-MacEditionにて動作確認を行っております。
このホームページの著作権は、秋月連に帰属します。無断転載を禁じます。
投稿作の著作権は、投稿者に帰属します。同じく無断転載を禁じます。

The copyright of this homepage belongs to the Ren Akizuki. Unapproved reproduction is forbidden.