□■崖■□
「速水!」
背後から投げられた声を聞きながら、横須賀基地総監部横の植え込みの間から係留されている護衛艦を眺めたまま、速水は振り返ろうとはしなかった。
「おい?」
やがて、予想通りの人物が隣に来て、速水の顔をひょいと覗き込む。
「どうしたんだ。ご機嫌斜めじゃないか」
言うなり、陸にいるわずか一週間で真っ黒になった、いつもは青白いような腕が伸びてきて、速水の柔らかい髪を掻き回す。
慰めてくれているらしい、と速水は溜め息をついた。

防大で一期上の先輩だった山中に、速水は在学中に関わったことはなかったが、面倒見の良さは級友たちからよく聞いていた。それを職場で体験しようとは思わなかった
が。
僚艦の副長である山中は、同じ副長職にある速水に様々なアドバイスをくれるが、加えて速水が落ち込んだり不機嫌だったりすると、どこからともなく必ずフォローに現
れるのだ。一度不思議に思って誰に聞いたのか聞くと、「勘だ」という至って明快な返事だったが。
感心半分、呆れ半分で「動物的な勘ですネ」と言うと、山中は少し困ったような顔をした後、「迷惑なら…」と帰る素振りを示したのでつい引き止めてしまった。実際、速水の不満や鬱憤を、ただ頷きながら聞いてくれる山中の存在は、速水にとってありがたいものだったのだ。持つべきものは良き同僚、である。
でも、今日ばかりは落ち込みに拍車がかかりそうだ…。
速水はもう一度溜め息をつくと、髪を掻き回している腕を両手で掴んでどけた。
「先輩」
「ん?」
どけられた手を気にした風もなく、山中が返事をする。
「人が死ぬ夢って見たことあります?」
「人が死ぬ夢?」
「ええ。血がどぱーってなってるようなヤツ」
山中が少し嫌そうに眉を寄せた。速水の言い方が嫌だったのか、想像した光景が嫌だったのかは定かではない。
「覚えてる限りじゃないな」
「それじゃ、人を死なせる夢は?」
「なんだって?」
「人を殺すんじゃなくて、死なせる夢」
「言ってることがわからないぞ、速水」
「…じゃあいいです」
「おい」
「……」
「……」
「……」
山中の口から溜め息が漏れた。
「…邪魔したな」
さすがに、あまりにつっけんどんな速水の態度に、お手上げといったように山中が踵を返す。去って行く背を見ながら、速水は悪態をついた。
「なんだよ、先輩のおたんこなすっ、ぼけかぼちゃっ」
言いながら、遠ざかる背中が二度と自分を相手にしてくれないような気がして、更に落ち込む。悪態をつく声が急速に小さくなり、速水は肩を落とした。
「なんか情けないなー、俺」
つぶやくとなんだか泣けてきそうで、速水はたつなみに戻るべく、のろのろと歩き出した。

翌日、またも落ち込み状態のまま昼食を摂りに食堂へ出向いた速水は、座ろうとしたテーブルの二つ先のテーブルに見知った後姿を見つけて、一瞬ためらった後、その隣に腰を下ろした。
「…」
「…」
昨日はすみません、と一言言えばいいのに、それが出てこない。
天を仰ぎたい気分で、味もわからない食べ物を咀嚼しながら、速水は自分に愛想が尽きそうだった。そうこうするうちに、隣の山中は食べ終わって箸を置く。トレイを持って椅子を引く。
「あ」
思わず手が伸びた。
立ち上がろうとしたところを阻止されて中腰になった山中が、自分の手首を掴んだ速水の腕を見、顔を見た。それからゆっくり腰を下ろすと、「ゆっくり食え」と言って笑った。穏やかな笑顔だった。

結局、小食な速水の食事はすぐに終わり、二人は缶ジュースを持って外に出た。ぶらぶらと歩いて、人通りのない草地に腰を下ろす。
腰を落ち着けた途端、速水は頭を下げた。
「先輩、昨日はすみません。夢見が悪くていらいらしてたんです」
一息に言った速水に、山中は苦笑して手を振った。
「まあ、そうゆうこともあるだろうな。気にしてないさ。でもなんだか、今日も冴えないツラしてないか、おまえ?」
「…ええ。今日も夢見が悪かったんですよ」
「ふぅん?」
「あのね、目の前の崖に二人の人がぶら下がっていたらどっちを助けるって、よくあるでしょう?」
「ああ。…その夢を見たのか?」
「そう。一人がうちの艦長で、もう一人が海江田海佐」
海江田、と聞いて山中が眉を上げた。
「艦長?」
「ええ」
「で?」
「俺は迷わずうちの艦長を助けましたよ。そしたら、海江田海佐が目の前を落っこちていって…。艦長に急かされて駆けつけたら、まわり中血だらけにして死んでて…。その血の色があんまり鮮やかで、なんかほんとのことみたいで…」
「それで落ち込んでたのか」
「そうです」
「なるほどな」
それきり黙って、山中は缶コーヒーをすすった。
「怒らないんですか?」
「なにを」
「だって俺は、海江田海佐を見殺しにしたんですよ」
「夢の話だろう?」
「だけど!」
「安心しろ。俺が同じ状況だったら、俺も深町海佐をお助けするから」
「え…」
速水は絶句した。
「なんで!」
「さぁな」
「先輩は上官を失ってもいいって言うのか!」
「誰もそんなことは言ってないだろう?」
「だって…っ」
速水の言葉は、ふいにそこで凍りついた。山中の真意に気付いたのだ。
山中はなにも明言しなかった。けれど、もしも実際そんなことになれば、彼は海江田の後を追って自ら飛び降りるだろう、と。
「……バカだ、あんた」
山中が笑った。
「バカはどっちだ。泣くな、バカ」

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